日本基督教団 南町田教会

教会常識

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日本基督教団教規 -第8章-戒規

141条戒規

戒規は、教団および教会の清潔と秩序を保ち、その徳を建てる目的をもって行なうものとする。

142条

 

 

 

教師に対する戒規は次の四種とする。
(1) 戒告
(2) 停職
(3) 免職
(4) 除名

143条

 

停職または免職の処分中にある者は、教団総会議員若しくは教区総会議員に選ばれ、または本教団若しくは教区の教務に従事することができない。

144条

 

 

信徒に対する戒規は次の三種とする。
(1) 戒告
(2) 陪餐停止
(3) 除名

145条

陪餐停止の処分中にある者は、役員に選挙されることができない。

146条

戒規に関する規定は、別に定める。

国家と教会

ローマの信徒への手紙 131-2

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。」

テモテへの手紙一22

「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」

統治者の助けは神の聖なる贈り物である(Sanctum esse Dei donum auxilium agistratus).

箴言8 15節-16

「わたしによって王は君臨し支配者は正しい掟を定める。

君侯、自由人、正しい裁きを行う人は皆 わたしによって治める。」 

マタイによる福音書5 1314

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。

もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」

教会は国家の福祉・正義・平和ために、執り成しの祈りをささげると同時に、その正しい維持発展のために福音を宣べ伝え、神による永遠の愛・義・平和を証しする。

 国家と教会、法律と福音を相互に並立させる。

バルトは教会と国家を神の国(The universal Kingdom of God)二つの同心円であり、神の恵みに基づく秩序であり、教会も国家もキリストの支配に服さなくてはならない。

究極的に神の支配が一元的に貫徹される。と言った。

ヨハネによる福音書19 1011

「そこで、ピラトは言った。『わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。』

イエスは答えられた。『神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。』」

世俗的政治権力の諸機能を肯定的に述べ、宗教的権力は世俗的権力から区別され、批判される。

そして、キリスト者は、世俗的権力を肯定し、これに協力するよう求める。

カルヴァンは教会と国家の二元論的並立を強調するものの、世俗権力が、公共の福祉(Public welfareに)反したり、神への礼拝を妨げ神の主権に反逆する場合は、

世俗権力への抵抗は、神への忠誠と矛盾しないばかりか、正当性を持つものとされたのである。

安土桃山時代から明治の初めまで、キリスト教が禁止されていた時代があった。明治政府がキリスト教の活動を公式に認めたのは、明治維新から31年経った1899年。明治憲法下では国教(神社神道)のみを信仰することが強制され、他の宗教を信仰することを禁じていた。

日本国憲法では国教を強制的に信仰させることを排除した。

憲法13条は「すべて国民は個人として尊重される」と規定する。「個人の尊重」こそが憲法の基本的な価値なのである。

宗教的行為の自由は、他の人の利益を侵害する場合は制限を受ける、としたのである。つまり、宗教的行為の自由は、公共の福祉の制限を受けるのである。

例えば、ある宗教は、多数の信者を動員し、資金を投入して大量殺人を目的とした毒ガス・サリンを大量に生成した。

そこで、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められるとともに、宗教法人法の所定の事由に該当するとして解散命令が出された。

憲法201項は「いかなる宗教も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定め、3項は「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めている。

つまり国から特権を受ける宗教を禁止し、国家の宗教的中立性を明示しているのである。


「教団」「教区」「教会」

「日本基督教団」は、「教団」「教区」「教会」という三つの領域に分けって組織され、運営されているのである。

日本基督教団の法的基盤というのはその信仰告白と教憲・教規である。

教憲 第1条教団は「イエス・キリストを首(かしら)と仰ぐ公同教会」 

5条「教団総会をもってその最高の政治機関とする。

6条「所属教会の地域的共同体」の教区総会をもってその最高の政治機関とする。

7条「所属教会は教団の信仰告白を奉じる者の団体」教会総会をもってその最高の政治機関とする。

宗教法人法の包括法人としての教団では宗教法人日本基督教団規則があり, 被包括法人としての各個教会は、宗教法人日本基督教団南町田教会規則がある。

85条教会は、本教団の信仰告白、教憲、教規および教団諸規則にのっとり教会規則を制定し、教区総会議長の承認を受けるものとする。

日本国家の認可(Genehmigung)を受けて、宗教法人を形成する。

ドイツのプロイセン一般ラント法では「宗教団体(Religionsgesellschaften)は,教会団体(Kirchengesellschaften)と呼ばれる」

宗教法人の「包括する」ものとされており、「構成員とする」というのとは、意味が異なっている。

日本語で「包括する」とは、「含む」「包む」などという意味であり、民法では「包括遺贈」(民法964条)があり、「包括遺贈」は、通常は、①全財産(積極・消極財産)を包括して遺贈する「全部包括遺贈」か、②全財産(積極・消極財産)の割合的な一部を包括して遺贈する「割合的包括遺贈」がある。

教団の「包括する」と言う意味は財産を特定することなく全部をまとめて遺贈することである。

「宗教団体の包括」とは、分立して活動している個々の単位団体をひとまとめにすることを意味する。

教憲4条『本教団は教憲および教規の定めるところにしたがって、会議制によりその政治を行う』とある。

教団が行う会議制による政治とは、いわゆる長老制でも会衆制でも監督制でもなく、それらとは異なる教会政治形態を取り入れている。

教憲 第6条「地域共同体」である教区は主体性、独自性、地域性が顕著にある。

教区によっては教区ごとの旧教派的伝統がある程度反映して、信条主義に基づいて教区教会性を主張する教区もあれば、比較的それが弱い教区もあるなど、教区ごとの多様性がある。教区は地域固有の課題を宣教の課題として展開する。

都市の大教会と地方の小教会における財政の格差が著しく、必然的に相互協力、互助が大切にする。教区をどのように形成するかということが課題となっている。

「教区」は、教規に則り、独自の「教区規則」を定めなければならないものとされ(教規60条1項)

「教区」の経費は、「教会」の負担金、献金、「教団」交付金その他の収入をもって当てるものとされ(教規79条)

「教会」の負担金は、「教区総会」の議決を経て定めるものとされており(教規80条1項)

独自の予算・決算を行うものとされている(教規84条において 第156条から第162 条および第163条)。

これらのことから、「教区」は、「教団」の指揮命令によって機能する出張所ではなく、地域共同体「教会」を構成員とし、特有の規則、役員、会計によって機能する団体である。

教規第85条には「教会は、本教団の信仰告白、教憲、教規および教団諸規則にのっとり教会規則を制定し、教区総会議長の承認をうけるものとする。」と定める。


教団⇒教区

宗教法人法上、「教区」を省略し、「教団」と「教会」という二つの領域によって処理されているのである。
教団と教会は法人格を持っているが, 教区は法人格を持っていない。
宗教法人の場合には、「教団」と「教会」とは、別の団体であり、
「教区」も「教団」とは別の団体であるのであるから、まったく性質が異なるのである。
教師の按手礼および准允、また牧師、伝道師の就任、退任は教区総会において処理すべき事項となっている(教規六六条)。

教区総会がそ処理すべき事項の根拠は教憲第六条である。「本教団はその教会的機能および教務を遂行するために教区を置く。

教区は本教団所属教会の地域的共同体であって、教区総会をもってその最高の政治機関とする。

前々項の教会的機能および教務は教区総会の決議ならびに教憲および教規の定めるところにしたがって、教区総会議長がこれを総括する。」

教会を法的に理解すると、教団がその教会的機能および教務を遂行するために「置いた」のが教区である。

教区総会は、「教団の教会的機能および教務」を委託されて遂行しているということである。

例えばかつて、福音主義教会連合による教師試験と按手礼を受けた教区内の教師が聖礼典を執行した時、教団常議員会は、その教会に聖礼典執行を止めるように勧告したことがある。

第59条 2 教区は、教務遂行のため、分区または地区を置くことができる。

分区または地区は教務遂行のための地域共同体の交わりであって教会性はない。

教区が教会性があるとするならば分区と地区にもその教会性がある。

教区は「合同教会の多様性」と「公同教会の一致」という並立理解がある。

ある教区においては一方的な「公同教会」の主張を再考して「合同教会」の形成を求めるところがある。

「公同教会」教憲第1条を見る。

「本教団はイエス・キリストを首(かしら)と仰ぐ公同教会であって、本教団の定める信仰告白を奉じ、教憲および教規の定めるところにしたがって、

 主の体たる公同教会の権能を行使し、その存立の使命を達成することをもって本旨とする。」

「公同教会であって」という解釈が重要である。「公同教会であって」は公同教会になるという意味ではなくすでに、公同教会であることを指している。

教会は「公同」であると告白する。「公同」とは、いつ、どこにあっても同じ、そのようにして普遍的な教会ということである。

なぜなら教会は「一つ」であり、「日本基督教団信仰告白の一致において」教団になったからである。

教会が真に教会であることの二つの基本的条件が規定されている。

第一は福音が純粋に教えられているかどうか。第二は「聖礼典が正しく執行される」ことである。

教団は公同教会として聖礼典を定められている。洗礼と聖餐式は教会の生命線である。

聖礼典(Sacrament)コリントの信徒への手紙一10章16節 ordinances 「礼典」と言われる。

聖餐(Eucharist)は感謝の一つの行為である。 コリントの信徒への手紙一 14章16節

聖餐は想起であり、記念することであり、記憶(remembrance)することである。

聖餐式は 「回心を促すための儀式(a converting ordinance)である。 

『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。』(ヨハネ第一の手紙1章9節)」

聖餐は「聖なる食卓(the holy meal)主の晩餐 (Lord’s Supper)
コリントの信徒への手紙一 11章17-34節 マタイによる福音書 26章17-29節

使徒言行録2章42節に、最初の教会の信者が 『パンを裂くことに熱心だった』である。」

聖餐はCommunion「コミュニオン」とも言える。 「交わり、共にあること」という意味である。

イエス・キリストと共にあずかることこそ教会の交わりの基本である。

聖餐を受ける時にはいつも 「Eucharistユーカリスト(ユーカリスティア)=感謝」とCommunion コミュニオン」を心に覚えて受ける。

またこれは「公同の教会」においてなされることで、父と子と聖霊との御名によって洗礼を受けた人は等しくあずかることができる。

教区は教憲を成文法のように、「公同教会であって」という定めるところに従わなくてはならない。

教区の「教会的機能および教務」の教会的判断、教務的判断ができないということを認識する必要がある。

教憲において「教会的機能および教務」という言葉が用いられているのは、教団(第六条)と教会(第七条)のみであって、教区については示されていないのである。

「教会的機能および教務」つまり教会性を持っているのは各個教会と教団だけであって、教区は「所属教会の地域的共同体」なのである。

教師戒規の問題は教区ではなく、教団が審議する。

健全なキリスト教的戒規がなされるためには、健全な信仰と教義の理解が求められる。

教団の職制が「教師と信徒」によって構成される(教憲第9,10条及び教規第123条以下)。

教師の戒規は教団の常設委員会である教師委員会が行う。

教規第8章 戒 規 第141条 戒規は、教団および教会の清潔と秩序を保ち、その徳を建てる目的をもって行なうものとする。

142条 教師に対する戒規は次の四種とする。

1)戒 告  (2)停 職  (3)免 職  (4)除 名

按手、准允、就任、辞任は教区が司るが、それは教団の教務を託されて行っているのである。

教師を立てる教会的権能が教区ではなく、教団にある。

教会の独自性

「教会」は、宗教法人となることが想定されており(教規85条の2)、「教会」は「教区」から独立した存在である。

教会は教団に対して、法的に独立しており、教会が教団との契約関係を結ぶのも解くのも自由であることを規定している。

教規 -4104

教会担任教師は、次の教務を執行する。ただし、伝道師は、第2号の教務を執行することができない。

(1) 礼拝、伝道および信徒の信仰指導

(2) 聖礼典の執行

(3) 結婚式、葬式その他の儀式

聖礼典(聖餐と洗礼)の洗礼式は教会のみ執行する。

教規 -4-86

教会規則には次の事項を規定しなければならない。

(6) 信徒に関する事項信徒の籍は教会に保管する。

日本基督教団における「信徒」の定義は、「洗礼を受けて教会に加えられた者。教会または伝道所に所属し、その会員名簿に登録された者」となっている。

日本基督教団「現住陪餐会員」という定義は「教会籍を置いている教会に定期的に出席している教会員」となっています。教会員は教会籍というものを教会に置く。

102

役員会の処理すべき事項は、次のとおりである。

(5) 信徒の入会、転入および転出に関する事項

教規 -6-139

信徒がその所属教会を変更しようとするときは、所属教会の薦書を受け、新たに属しようとする教会に提出し、その承認を受けるものとする。」

教会籍は、普段から礼拝に出席し、奉仕し、献金できる教会に置くべきものである。

日本基督教団 教会規則(準則) 9 条 「他の教会に所属する信徒で,この教会に転入会を志願する者は,所属教会の薦書を役員会に提出するものとする。役員会がこれを承認したときこの教会の信徒になる。」

10条「日本基督教団以外の教会に所属する信徒が転入会を志願する場合は,日本基督教団信仰告白を受け入れることを誓約しなければならない。」

 「宣教基礎理論の改訂」第二次草案

日本基督教団は「宣教基本方策」(1961年)と「宣教基礎理論試論」(1963年) 」として完成し、第3回伝道全体委員会で承認されたという経緯を持っている。

宣教基本方策というのは、「すべての人々への宣教の責任を果たす教会、この世に奉仕する教会」という意味での教会の「体質改善」と地域社会に対して連帯的に働きかける「伝道圏伝道」を二本柱とするものであった。

教会の『体質改善』は、より教会的な用語法によれば、教会の革新( Renewal of the Church )である。

教団に属する教会は、イエス・キリストにある新しい生を確信して、従来、この世から孤立しがちであった。

教会の「自己中心的な殻」を打ち破って、この世における「証し」と「奉仕」の働きを強化してゆくことと、伝道の戦いの場は信徒の日常生活であるから、信徒の人たちの訓練と交わりを確立すること、福音の大衆への浸透をはかるために、

大衆が真に必要としていることをとらえて、これに仕えていくことを通して福音の証しをしてゆくことなどが、教会の「体質改善」の目的であるとされた。

日本基督教団議長であった鈴木正久は言っている。

「教会の革新は、われわれが立っているところから始められなければならない教会の体質改善は、社会問題という食べ物を食べても(取り込んでも)アレルギーを起こさない体質となる」。

伝道圏伝道は、日本の教会の人たちの意識の中に「地域社会」に対して開かれた眼差しを芽生えさせて、「地域に開かれた教会」とか、「教会は社会のニーズに応えなければならない」といった標語を生んでいったし、同じ地域の中で、複数の教会がお互いに協力して伝道してゆく気運も生まれていた。

「宣教基礎理論の改訂」第二次草案は「宣教基礎理論」の中には『神との和解』という垂直的次元への言及が欠落していたからだと考えられる。

「これまでの教会の『内向き』の体質・姿勢を批判し、教会はもっと『社会の激変』に対応するよう、「外向き」の姿勢を取らなければならない、というものでした。

しかし、この『外向き』になるという主張は、教会形成や伝道がその主要な内容ではなく、むしろ、社会や歴史への直接的な関わりや社会変革に力点があったため、やがて『教会派』と『社会派』との対立と相互不信を生み出す結果となり、教勢の低下を来しました。たしかに、『内向き』となる傾向は避けなければならないでありましょう。

しかし、キリストの体としての教会にとっては、内向きや外向きである以前に、神との垂直的関係において教会が教会であるかどうかが、常に優先されるべきです。」

「宣教基礎理論」の改訂の骨組は、宗教改革の根本精神に立ち帰ることである。

 

教団新報より抜粋

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