日本基督教団 南町田教会

説教集

2019年9月29日(日) マルコによる福音書4:1-9 説教 黄昌性牧師

聖書本文

日本では種を蒔くとき一粒一粒を大事にする。パレスチナ地方では、農夫はまず畑一面に種を蒔きその後耕作に適している土地を鍬で耕し、土をかぶせる。耕作に適していない畑のあぜ道や雑草が生えている箇所などはそのままにしておく。それらの種は実を結ぶことはないが、農夫はそれはあまり気にせずに、畑一面に種を蒔くのである。ヨーロッパではイエス・キリストのたとえ話のとおり種蒔きが行われ作物が成長していく。小説「沈黙」の著者はキリシタン迫害時代、棄教した神父フェレイラを通して「日本は泥沼だ」と形容し、日本には福音は根付かないと語った。

イエス・キリストが語られた「種を蒔く人のたとえ話」を見ていきたいが、種が蒔かれてその種が成長するのを見守り、収穫に一喜一憂するのは、この当時の人々にとっては日常的なことであった。

種蒔きのたとえは、マルコによる福音書第4章1節から9節、マタイによる福音書第13章1節から8節、そしてルカによる福音書第8章4節から8節に書かれている。

今日の個所では、再び湖のほとりで群衆を相手にお語りになるイエス・キリストの教えが記されている。

おびただしい群衆に対して、舟の上から、湖畔にいる群衆に語り掛けるイエス・キリスト。ガリラヤ湖のほとりで群衆たちに教えを施される問いはすでに2章13節に出てきた。そして、おびただしい群衆がイエス・キリストのところに押し寄せてくるために、小舟に乗って群衆から少し離れて対応するのは3章の9節に既に出てきた。

「湖のほとりで」とあるが当然、ガリラヤ湖での出来事である。4章1節までで既に「ガリラヤ」が4回、「湖=海」が5回、「湖のほとり」が3回、用いられている。

種が落ちた場所として、道端、石地、茨の中、良い土地という四種類の土地が用いられているが、その四種類の土地は御言葉を聞いた人の心の状態であり、聞き方、姿勢を表しているといえよう。種を蒔く人がどのような土地にも種を蒔き、効率を重視することなく、失敗を恐れないでいる姿は、神が私たちに御言葉を語り続けてくださる姿と重なる。

種を蒔く人はどこに蒔くかはあまり気にせずに、むしろ最初から結果を予想しているかのように、いろんな場所に種を蒔いていく。

4節「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」道端、道路のほとりにの「ほとりに」は、「湖のほとりに」と言う時と同じである。蒔かれた種とは神の言葉または御国の言葉である。しかしながらこの言葉は、蒔かれたどの場所でも同じ結果をもたらすわけではない。その実りは、どの土地に落ちたかによって左右されるのである。その土地のひとつは「道端」の土地で、イエス・キリストの説明によれば、それは御言葉を聞いても「悟らない」人々のことである。「種を蒔く人」のたとえが意味するのは、悟ること、心の底から御言葉を受け入れることである。心が硬ければ、御言葉の種は道端に落ちたようになるであろう。「かたくなさ」と訳されたギリシャ語「porosis」という言葉は「無感覚、硬結」という意味である。これはマルコによる福音書3章5 節で、ファリサイ派の人々のかたくなな(ポロセイ)hardness心を表した言葉である。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」。神様の御言葉を聞いても、後から悪魔がそれを奪い去ってしまう、つまり御言葉がその人の心に根付かずに失われてしまうのである。「人に踏みつけられ」という言葉からは、それが価値のないものとして無視される、ということも感じられる。

「別の種は石が多い地に蒔かれ、すぐに枯れてしまいます(5、6節)」。「土が深くないので」、「根を持たないので」と、全く同じ表現である。「根」は、根の他に、根元から出る芽生え、ひこばえの意味を持つ。

ある土地では、種はすぐに芽を出すが、結局は枯れてしまう。それは石だらけの土地である。種が枯れてしまうのは、石があるために根が必要な水分を得られるほどの深さに到達しないからである。そのため、風が吹けばたちまちしおれてしまう。悪魔は神の「道」を曲げて「神の言葉を聞かせまいとして、人を信仰から遠ざける者」(使徒言行録13:7~10)なのである。つまり御言葉がその人の心に根付かずに失われてしまうのである。石の上には薄らと土があり水分もあるため、芽を出すこともある。しかし、良い地のように根をはることができないためしばらくすると枯れてしまう。御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。この場合は、御言葉を聞いてそれを喜んで受け入れ、信じる。しかし、石に邪魔されて根を深く張ることができない、いわゆる「根が浅い」のである。

「茨の中に蒔かれた種は、茨にふさがれて実を結びませんでした(7節)」。

カルポス。その実が結ばなかった、つまり信仰の結実が無かったのである。いばらの真ん中にも土はある。それで芽を出し、しばらくは成長する。ところが、周りにあるいばらも成長するためいばらに囲まれて、太陽の光があたらなくなり、風通しも悪くなり、ひょろひょろとしばらく成長するが、実を結ぶまでには至らない。ここでの問題は、御言葉とともに、「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」が心に入り込んでいることである。根が浅いというのではなくて、むしろ周囲の状況から来る妨げによって、せっかく芽が出ても実を結ぶに至らず枯れてしまうということである。信仰においてはその妨げの思い煩いは、悩みや苦しみや悲しみ、つまり不幸である。神様の御言葉の種が実を結んでいくための妨げになる、人間は不幸、苦しみの中でも、また幸福、喜びの中でも、信仰を失い、神様から離れていってしまうことが起ることが見つめられているのである。主イエスは御言葉の種を蒔き続けておられる。そして、その種は良い地に落ちて、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなるとの約束を与えてくださっておられる(8節)。

イエス・キリストは、このたとえを解説された(マタイ13:18-23)。「実を結ばない土地は、神の言葉を聞かない人の姿で、実を結ぶ土地は、神の言葉を聞き、それを心から受け入れる人の姿だ」という具合にである。

パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリ1:18)と語った。十字架の言葉は、わたしたちをより分けていく不思議な力をもっている。信じない者は信じないが、信じる者には豊かなみのりをもたらすのである。

そのような習慣があるとしても、麦の種ならば多少無駄になってもそれほど気にしないで済むとしても、神の御言葉の種は一つも無駄にされてはならないと、わたしたちは考える。しかし、イエス・キリストは言われる。神の御言葉の種は、多くが無駄とも思えるように実りを付けずに終わるのだ。神の御言葉はこの地では、実に多くの敵や障害や抵抗に遭遇し、無関心や弱さやつまずきと出会うのだと。しかしそれでもなおも、イエス・キリストと共に御言葉の種を蒔く人は、失望せずに諦めずに、種を続けるために出かけていくのだと。これが、種を蒔く人のたとえの中心的なメッセージなのである。たとえ話の最後にイエス・キリストは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。これは、「聞く耳を開いてよく聞きなさい」という意味に取ることもできるが、しかしそういうことは、たとえ話を語り始める前の3節における「よく聞きなさい」という言葉によって語られている。この9節はむしろ、「私のかけたこの謎を解く耳を持ちなさい」という意味であると考えてよいのではないであろうか。イエス・キリストはたとえ話によって、聞く者に、また私たちに、謎をかけ、それをよく考えさせようとしておられるのである。神が語りたいと願う場所に、種を届けることである。

神の言葉を私たちが真剣に聞くことから私たちの種蒔きは始まるのである。

1粒の種が、私たち自身のうちに実を結ぶならば、それは、100倍、60倍、30倍にもなる。 実は誰かを養うために存在する。そして、余った実は地に落ちて栄養となるのである。また、その実にある種が育ち、実を結ぶこともあろう。そうやって、神から受け取った種を私たちは、この世界に神と共に蒔くことが出来るのである。

イエス・キリストはこの種を蒔く人のたとえを語られた後、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。これは「聞きつづけなさい」ということである。イエス・キリストの言葉を聞くことの重要性が強調されているのである。そうするなら、必ず、イエス・キリストが言わんとするたとえの真意を悟ることができるようになるからである。イザヤ書6章9~10節「主は言われた。『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなくその心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために』」。イザヤは預言者として神の言葉を語るように召されたが、イスラエルは見ても見えず、聞いても理解できない状態に放置されたのであった。

ルカによる福音書第8章15節 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」

前出の種類は、心がかたくなに固まっていて、御言葉を「悟る」ことも受け入れることもできない人たちである。対照的に、実を結ぶ種類の人たちは、立派な善い心で御言葉を聞き悟る。この実りのある種類に属する人たちは、他の実りのない三種類に欠けていたものを全て備えている。

「沈黙」のように、もし日本は泥沼なら、またもし石地や茨の生えた土地であるなら、そこで諦めるのではなく、その土地を改良する「福音の開拓者」とさせて頂く希望を語り継ぐことこそ、キリスト者に植えられる使命ではないだろうか。

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」の「御言葉を聞いて受け入れる」ということは、聖書の御言葉を聞いて、イエス・キリストご自身を受け入れることであるとも言えるのである。イエス・キリストご自身を受け入れるというのは、イエス・キリストを信じて聖霊をいただくということである。

詩編126編5~6節に「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」とあるが、

この慰めに満ちた答えは、祭司や預言者の思い付きのその場限りの慰めではない。また、安易な慰めを意味しているのでもない。

イエス・キリストは、ヨハネ12:24~25において、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われる。この詩編のこれらの言葉も、主イエスのこの言葉と根底において同じ理解が存在する。その時代の苦難に、光を与え、最終的に闇から光へと導くのは、神の奇しき生命力への信仰だけである。確かに御言葉は、至る所で増えてゆき、それが正しい仕方で受け入れられる所では、とどまることはない。しかし必ずしも、どこでも、同じような爆発的な力で、人々を捕えるわけではないのである。 御言葉が、ある者の中につくった信仰によって、他の者の中に信仰が起こされる。ある人の中に植えつけられた愛によって、他の人の中に愛が目覚めさせられる。 しかし、その働きの範囲は、イエス・キリストの言葉を持ち、守る人々の中でも、いろいろ段階があるということである。 ちょうど一粒の種が、ある場合には30倍、ほかの場合は60倍また100倍と、種の中にまた種粒を生んでいくようなものである。

このようにイエス・キリストは、弟子たちの中に、彼の働きが無駄に終わらないように、また弟子の業も無駄にならないという、喜びに満ちた確信を呼び起こしたのである。野菜や作物を育てて、実を結ばせるためには何が必要であろうか。まず、畑を耕すことである。また適度な養分、水分が必要である。しかし、それだけでは十分ではない。豊かな実を実らせるためには、良い状態を保つ必要があるのである。雑草をひいたり、虫を取り除いたり、日当たりや水にも気を使う必要がある。これと同じように私たちの心の状態を良い状態に保つためには手入れが必要である。つまり、日々の祈りが必要なのである。

2019年9月22日 マルコによる福音書 3:28-35 説教 西田浩子牧師

聖書本文

礼拝とは、私たちの思いと心と体を用いて、神の価値と、主がイエス様にあって私たちの味方であられるそのすべてを表現することである。それを生きる方法、そして愛する方法がある。

教会では、信仰という言葉をよく聞く。これは、神様を信じるということである。その言葉の通り信じれば良いのだが、信じる事の内容を具体的にはどういうことかを考えないままで、「神様を信じていますか?」と聞かれたとき、「はい、信じています」と答えていることがある。信じるというのは、知っていることとは違うことなのである。

日本には、「触らぬ神に祟りなし」ということわざがあるが、聖霊にはうっかり近づくな。聖霊のことは口にするな。そのほうが無難だから、と考える傾向があるように思う。

今朝の聖書マルコによる福音書3章28~30節では、神の恵みの深さと厳しさが語られている。前半の「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦される」というのは、主イエスによる罪の赦しの深さを教えている。後半の「しかし、聖霊を冒涜する者は永遠の赦されず、永遠の罪の責めを負う」というのは、主の働きをサタンの働きと見ることへの戒め・警告の言葉と言えよう。

ルカによる福音書12章10節に「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」とある。また、マタイによる福音書12章31節‐32節には「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。 人の子に言い逆らう者は赦される。 しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」とある。

人の子として世に来られた、イエス様の働きの根源は、まさに聖霊の力そのものである。これをサタンのせいにするということは、根本的に神を否定することとなり、悪霊に支配された人の心を解放し、悔い改めに至らせる聖霊を拒否することは、つまり、永遠に神から引き離されることになるということを意味している。

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)の3箇所に共通して述べられていることは、“霊”に対する冒涜は赦されない。聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがないということである。

聖霊を冒涜する罪というのは、悔い改めて信仰に入って洗礼を受けて後、行いで犯す罪ではない。キリストがすべての罪の赦し主であるという教理、教えを拒否することが聖霊を冒涜する罪であり、それが永遠に赦されることのない罪なのである。聖書は、「キリストが流した血によって人間の罪が赦される」と言っている。これが、イエス様の十字架の本質的な意味である。それを私たちに教え示すのが聖霊の究極の働きである。その聖霊に頑なに反抗して、イエス様の血によっても罪の赦しは与えられないのだと反論する時、聖霊を汚す罪を犯すということになる。

ベンゲルという学者は、「すべての罪が赦されることを否定して、認めまいとすれば、これは人間でなくなる、サタンになるのである。サタンになるときだけ、聖霊を汚す罪を犯すのである。人間であり続ける限り、人間の犯す罪は全て赦される。しかし、このすべての罪が赦されることを否定すると人間ではなくなり、サタンになるのです」。と言っている。

聖霊は、私たちの内に生きる神である。私たちは聖霊の導きの下、信仰の道から踏み外すことがないように神に従う。

マルコによる福音書3章31~35節には主の家族が再び現れ、人をやって主を呼んだことが書かれている。

イエス様の母と兄弟姉妹はイエス様のことを、「あの男は気が変になっている」と言っている律法学者からの噂を聞いて、心配になったはずである。そこで、イエス様に会いに来たのであろう。

「取り押さえに来た」とあるので、イエス様を無理矢理にでも連れて帰って、平凡な静かな生活にもどらせようとしたのであろう。その時、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれかのことか」と、イエスさまはお答えになった。この言葉は、肉親の家族に向かって、何とも冷たく聞こえる言葉である。イエスさまのお母さんや兄弟姉妹は、イエスさまのことを心配して、わざわざ遠い所から訪ねてきたのである。

人間の血縁関係は、度々信仰の妨げになる。主イエスから信仰者を引き離すことがある。そこで主イエスは、ひとたびこの肉にある関係を断ち切るのである。「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』」と問い返される。この問いは、明らかにそれまでの主イエスと母マリアとの肉にある親子関係、また兄弟姉妹たちとの肉にある家族関係を否定し、断ち切る意図を持っている。主イエスは家族を新しい霊による関係へ、信仰による交わりへと導くために、肉にある関係をひとたび断ち切るのである。

イエス様にとって最も大切なことは、血縁関係ではなく神様との関係である。いかに神さまの御心にかなうか、神様が願っておられることに従うかということにある。

神の御心には二つの流れがある。一つは、申命記29章28節にあるような、いつ世の終りが来るのかというような私たち人間に隠された神の御心と、もう一つは、私たちにもわかる啓示された御心がある。マタイによる福音書12章50節に、イエス様が言われる「私の天の父の御心」とあるが、これは啓示された御心であり、今ではその全てが聖書に記されている。

「神の御心を行う人」というのは、イエス様に従っている弟子たちのことであり、またイエス様の周りに座ってイエス様のお話を聞いている人々のことであると言える。

主イエスは新しい人間関係、新しい家族を創造される。ご自分がその中心におられ、ご自分が語られる神の御言葉を聞き、それに従い、その御言葉に生きることによって共に結ばれている神の家族を創造される。イエス様が、新しい神の家の中心に立っておられ、わたしたちを聖霊によって一つの神の家族として結び合わせてくださった。

ヨハネによる福音書5章30節に「わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」また、同じくヨハネ6章38節に「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」とある。

「信じる」ということを、イエス様は、「御心を行う」という言葉に言い換えている、と理解すればよいと思う。信じることは、自分が心の中にそう思ってさえいればいいのだ、生活はどうであれ、私がそう知っていればいいのだとするなら、これは大きな間違いである。御心を行わなければ、信じているとは言えないと言っている。御心を行うとは、父なる神様の御声に従うのである。

キリストの御心とは父の御心であり、父の御心とは、父なる神の御心ということである。これは、悔い改めと救い主イエス・キリストを信じるということである。

キリストを信じると言う時に、二つの在り方があると言える。

二つの木を想像してみたい。一つは、幹が私で、キリストという枝を、幹である私に繋げた木である。もう一つは、キリストが幹で、私という枝を幹であるキリストに繋げた木である。天の父の御心を行なう者とは、悔い改め、キリストが幹であり、自分を枝として生きる者である。

神が私たちに望まれないこととは、罪を犯すこと、神の御心に反することを選ぶことである。神は私たちに、神の御心に同意するという選択肢を取ることを望まれる。それでは、どのようにして神の御心を知ることができるのか。もし皆さんが、主と親しみ深く共に歩み、真に人生の中で、主の御心がなされることを望んでいるなら、神は皆さんの心の中に主の望まれる思いを置かれるであろう。鍵は、自分自身の望むことではなく、主の御心を心から求めることである。

ローマの信徒への手紙12章2節は「善いことで、神に喜ばれ、また完全なこと」と教えている。そのため、神が何をお望みかという神の御心を知っている必要がある。誰かの御心を知るには、まず、その人が私たちに御心を知らせる必要がある。同様に、神の御心を知るためにも、神の言葉が文字となって記されている聖書や、私たちが生まれ変わったときに受けた聖霊などを通して、神がご自身の御心をお示しになられる必要がある。

マタイ26章39節で主は、「父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いどおりではなく、御心のままに。」と言われる。「神の御心」とは一体何を言っているのであろうか。

この「神の御心」とは、イエス様が死なれることであった。これが神のご計画で、定められたことである。

箴言21章1節「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」とある。これが神の御心の意味である。それはすべてにおける神の主権の支配である。私たちはこれを主の「主権の御心」または、神の「定められた御心」と呼ぶ。

神の御心とは、主が私たちに行うよう命令されるものである。これは私たちが従わず、また怠るという選択ができる神の御心である。神の御心を行う人というのは「神の言葉を聞いて行う人」ということだと思う。誰でもイエスさまの家族になることができる。それはとてもすばらしいことに違いない。しかし同時に、「神の言葉を聞いて行う人」が家族であると言われると、それはとても難しいことのように聞こえる。神さまの命令を全部聞かなければ、イエスさまの家族にはなれないのだぞと、言われているように聞こえる。

マルコによる福音書3章に戻るが、使いの者はイエスの母親と兄弟たちが外でイエスを捜しているということしか告げていない。もちろん、イエス・キリストは全知全能の神であるから、訪問の真の理由を知っていたとも考えられる。もしそうであるなら、全知全能の神らしく、こんな回りくどいことをしなくても、取り押さえに来る者たちの手を逃れることはいくらでもできたであろう。

いずれにしても、ここに記されている言葉の聞き手は、やってきた母親や兄弟たちではない。見せつけるように嫌味を言っているわけでは決してない。聞き手は、この場に居合わせた周りの人たちである。弟子たちを含め、イエスの周りに集まってきた群衆たちに語られた言葉である。

ここで重要なのは、主イエスが周りに座っている人々を見回しておられるということ、主イエスがその家の中心に立っておられるということである。

心の一新によって自分を変える、というのは単純ではない。新しい心と新しい思いが必要である。木を良くすれば、実が良くなるのである(マタイ12:33)。これは大きなチャレンジである。それは、神が私たちを召しておられるということである。私たちは自分でそれを成すことができない。私たちの罪のために死んでくださったキリストが必要である。そしてキリストの真理に私たちを導き、その真理を受け入れる謙遜を、私たちのうちに働かせてくださる聖霊が必要なのである。

聖霊に反する悪霊とは、その語源はシェディームといい、異教の神々や偶像崇拝の背景として用いられている。神の霊に対して、「汚れた霊」という言葉が悪霊と同じ意味に用いられている。イエス様の内にある聖霊を「汚れた霊」と呼ぶことは、神の赦しを否定することであり、人間が悪の力から自由にされる、解放されることを否定することであると言われる。

神の愚かさは利口な人よりも賢く、神の知恵は悪魔に勝るため、何かと自分で打算したり、損得勘定をするよりも、すべて主に任せて、ただ黙ってついていくとき、身の回りの小さなことから始まって、徐々に聖霊のお働きが分かってくる。聖霊の働きによって、愛の業が生まれ、私たちは、心から神への讃美と感謝をささげ、悔い改めと服従をいつでも新たにし、霊とまことによる礼拝をささげることができるのである。

2019年9月15日(日) マルコによる福音書3:20-27 説教 黄昌性牧師

聖書本文

明日は敬老の日である。今朝行われたみぎわホームでの礼拝では、明日の敬老の日にちなみ、高齢になり白髪を頂くことの祝福について話し分かち合った。西洋では白髪をGray Hairと言う。白あるいはグレーになった頭は神様から与えられた栄光の冠である。

キリスト教ではよく「御心」や「御霊」という言葉を使うがそれは、「神様の御心」、「神様の霊」という意味である。イエス・キリストの御心と神様の霊は我々と常にともにおられる。御心、御霊が我々の「家」となり、我々がイエス・キリストの御心、御霊の「家」となるのである。今朝の聖書個所には「家」が登場する。ペトロの家からイエス・キリストの身内の人の家へと移動してきたイエス・キリストの一行。20節において、家の人の心に変化が起こっている。身内の人がイエス様を取り押さえようとしている。この出来事の関連個所は、マタイ12:22-30、ルカ11:14-23である。新共同訳を見ると今朝の箇所には「ベルゼブル論争」という小見出しがあり、20‐27節に、イエス・キリストとベルゼブルの存在について語られている。イエス・キリストは、食事をする暇もないほど絶えず神の国について宣べ伝えておられた。なぜ身内の人はイエス・キリストを「気が変になっている」と言ったのか。周りのうわさを聞いて身内の人達はイエス様を「気が変になった」と言ったのであろうか。律法学者たちはイエス・キリストが病人を癒されるところを見ていた。ベルゼブルとはヘブライ語で「バアル(主人)」と「ゼブル(住まい)」という意味であり、サタンが主人となって住まうという意味である。その悪霊の頭であるベルゼブルの力によってイエス・キリストが悪霊を追い出している、と町の人々も身内も捉えたのであった。教会は神の家であり、我々人間も神の家である。イエス・キリストはご自身が家である。聖書は、十字架の上でご自身を犠牲的に捧げることによって神様に従われたイエス・キリストが、悪霊によって悪霊を追い出しているわけではないことをマルコ3章24以下において「国」、「家」を用いて表している。悪霊はイエス・キリストに対抗することはできない。なぜなら神様の愛はすべてに勝っているからである。最近、東アジアにおいて様々な問題が取り上げられているが、イエス・キリストがなされたように我々人間も種々の問題を取り扱うべきであると考えている。つまり、イエス・キリストが神様と我々人間の和解のため、御自ら十字架にかかり神様に祈ってくださったように、被害者が加害者のために祈るべきであるということである。「神様の霊と人の関係」と、「悪霊と人の関係」は全く異なる。ヤコブ4:7の御言葉には、「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」とある。22節「エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた」。律法学者たちはイエス・キリストを悪霊の頭で悪霊を追い出している者と見なし、殺そうと謀っていた。FBIにおいて、偽造ドル紙幣を見分ける訓練をしているが、それはどのような方法であるかというと、偽札と本物の紙幣を見比べるのではなく、ひたすら本物の紙幣だけを見て本物の紙幣の姿を目に焼き付けるというのである。同じように我々は本物のイエス・キリストを見つけるためにサタンを見つめるのではなく、ひたすらイエス・キリストのみ見つめ続けるべきである。家である教会において、聖書の御言葉とそこで奏でられる音楽の内にとどまることである。聖なる言葉、祈り、音楽の内にあるとき自然とイエス・キリストのことが分かるようになる。悪を見ている親は悪い言葉、否定的な言葉をもって子供を育てるようになる。だから悪を見る必要はない。良い物のみを見るべきである。存在論的に御言葉を捉えるべきである。存在論的に悪に打ち勝つには、聖霊によらなければならない。私の心が「神様が住まわれる家」になっていなければ、聖霊のことを理解することはできない。「国」も「家」も成り立たなくなるのと同じ状況になってしまうのである。説教学で有名な神学者ボーレンは、「信仰が与えられるということは新しい眼鏡を得ることである」と言った。霊のまなざしにより新しい眼鏡が我々に与えられ、十字架の御言葉、復活の御言葉の中で罪の中にいる自分が勝利するのである。眼鏡が与えられた清い心によって新しいものを見ることができるのである。心の清い人々は神を見ると御言葉は語っている。心とは魂のことである。魂が悪に陥っている状態について、23-27節において例を用いて記されている。サタンがサタンを追い出そうとして内輪もめすれば立ち行かなくなるのである。教会史で有名なオリゲネスは「我々の内に望みを表してくださるイエス・キリストは人格として神の御国を語られている」と言っている。つまり、イエス・キリストは神の御国を「愛」「希望」「信仰」の交わりの御国であると語られているということである。神の御国にいる者、聖霊における人格がある者の交わりである。一方、律法学者たちはイエス・キリストによる病人の癒しを、非人格的にとらえていた。サタンの支配を打ち破るために来られたのがイエス・キリストなのであって、イエス・キリストの御力をサタンの力と同様の力と捉えてはいけないのである。マタイ福音書とルカ福音書の関連個所には、イエス・キリストが神の霊、神の御旨によって悪霊を追い出すと記されており、またそのようなところにはすでに神の国が来ていると語る。サタンは人を不幸、闇、病に導こうとするが、しかし神の御旨にあるならば我々は神の御国へと導かれるのである。神の御国は恵みと平和の家、恵みと平和の国である。サタンに打ち勝つのは神様、イエス・キリストのみである。イエス・キリストを神の御国において知るにはどうしたらよいだろうか。イエス・キリストはナザレの人として始めから神の力があったのであろうか。むろんイエス・キリストは神の御子である。しかし、イエス・キリストが40日の間、荒野の中で断食と苦しみを克服し、サタンの誘惑に打ち勝たれた後、さらに御力を帯びて宣教の業を成し遂げられた。この御業は誰にでもできることではない。

マタイ12:32「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」イエス・キリストは、ご自身に言い逆らっても良い、しかし、聖霊を冒涜することは赦されないと言われた。無実の罪のゆえに十字架刑に処せられたイエス・キリストは被害者である。そのイエス・キリストが「私に対しては言い逆らっても良い」と言われるのである。ご自身を犠牲にして和解の道を開いてくださったのである。神の霊によらなければ、礼拝は何であるかを理解することはできない。「私に逆らう者は赦される」と、被害者であるイエス・キリストは言われた。人と人との関係、国と国との関係においてイエス・キリストの御姿は模範、モデルである。イエス・キリストが死なれたのはゴルゴタの丘、ローマであり、エルサレム神殿ではなかった。今や創造の世界が再創造されるべきである。イエス・キリストの家、国は、「和解の家」であり「平和の御国」である。イエス・キリストがよみがえられ、聖霊の働きがここにある。聖霊に委ねて礼拝をし、いつ、どのような時においても委ねることが我々にとって必要なことである。聖霊に委ねる信仰をもちつつ一週間を歩みたい。

2019年9月8日(日) マルコによる福音書3:13-19 説教 黄昌性牧師

聖書本文

キリスト教はお墓の宗教である。なぜローマ帝国がキリスト教国になったのであろうか。イエス・キリストが十字架刑で死なれ3日目に甦られたとき、その御体が墓からなくなっていたことをローマ兵は目撃した。その兵士がポンテオピラトに「将来ローマはイエス・キリストを受け入れなくてはならない」と手紙を書いたという話がある。そしてこの兵士の手紙のゆえではなかろうが、AD313年コンスタンティヌス帝の時代に、ローマは果たしてキリスト教国となったのである。死は終わりではなく始まりである。死が生につながるのである。日本は祝福された国である。なぜ祝福されているのか。私はその理由を、日本には亡くなった人を思い起こす文化が根底にあるからだと考えている。日本では民家のそばに墓を建て、人の住む地域に神社やお寺を建てる。町田駅を降りて歩いてみると10分くらいしてお墓が見える。つまり、死を大切にする国民であるから祝福を受けていると思うのである。12使徒を選ばれたイエス・キリストは迫害され死なれた。そして、使徒たちも迫害を受け命を落としたのである。キリスト教は死の内に祈り死の内に考え捉える宗教であるといえよう。マルコ2章においてガリラヤ宣教をされたイエス・キリストは、神を見上げ山に登り祈られた。キリストは人として神の出会いを設けるため、山に登られた。旧約聖書のモーセとエリヤにおける神との出会いも同様である。イエス・キリストは人間の罪のために受肉された。ルカ6:12「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」イエス・キリストは神様の御声を聞くため山に登られたのである。イエス・キリストは「これと思う」「御心に適った者」をご自分の弟子として選ばれた。ナザレの人としてではなく、神の子として選ばれたのである。

お墓が町中にあれば、いつでも行って祈ることができる。祈りは祝福である。イエス・キリストは墓から甦られた。アブラハム、イサク、ヤコブの系図には血族以上の意味がある。キリスト教は系図を大切にする。イエス・キリストは歴史の中で死なれ、また弟子たちもその同じ道に歩み死んだのである。マルコ1:35以下にあるイエス・キリストが弟子たちを引き連れ御言葉を伝え歩かれた記事の中に、イエス・キリストが悪霊を追い出す場面がある。悪霊とは何であろうか。悪霊とは、人間と決して交わることのない、心でつながることができないものである。一方で、愛する人の墓前で礼拝をささげるときに、それが暑い夏だとして、涼しい風が吹いたときに、今は亡きあの人が「ありがとう」と言っているのだと感じる、つまり心がつながるのである。そして聖霊も同様に、心がつながるのである。ところで亡き人のために祈る心は、宗教にかかわらず同じである。僧侶の方々も死を語り亡くなった方のために祈る。祈りはクリスチャン・ノンクリスチャンにかかわらず、良い心がある交わりは聖霊の愛の交わりである。神様の内に人の死を思い、すべての方々に祝福があるように祈ることである。我々には神様との人格的な交わりが必要であり、イエス・キリストはその模範を示された。イエス・キリストはご自身が十字架にかかることによってローマを変えたのである。死は悲しいことである。しかし、イエス・キリストは神様を深く知っておられ、自ら十字架の道を選ばれたのである。イエス・キリストは、十字架にかけられる以前に、12人を選びだされた。それは①使徒がイエス・キリストのそばにいるべきであるから、②神様の御言葉を宣べ伝えるため、そして③悪霊を追い出す権能を授けるためであった。神様の霊にとどまる人は、平和の内に悪霊と聖霊を区別することができる。人はもともと良いものをもって生まれたのである。伝道とは、神様の道を伝えることである。嫌なことがあった時、ある人たちはお酒を飲んでそれを忘れようとする。心の中の「神の良心における人」と「サタン」の戦いがあるため、神様以外の何かによって不安を取り去ろうと試みるのである。一時的にはその問題から目を背けることはできるかもしれない。しかし、我々には根本的にイエス・キリストの権能が必要なのである。神の力によってのみ、人は真に平安を得ることができるからである。受洗の有無にかかわらず、人は神の平安を受けるのである。御言葉にある通り、我々の一日は神様においての千年であり、我々の千年は神様においての一日である。死は終わりではない。だからイエス・キリストの世界を深く学ぶべきである。イエス・キリストはご自身が苦難の道を歩まれることによって、人々に祝福と平和がもたらされることを願われた。使徒は、イエス・キリストのその御心を成し遂げるために遣わされた人々である。マルコ3:16‐19、マタイ10:2-4、ルカ6:13‐16に、12弟子についての記載がある。ペトロはシモンとも呼ばれ(石のような人)、アンドレと兄弟で両者ともに漁師であった。ペトロは初代ローマ教皇である。ヤコブとヨハネも兄弟で漁師であり、雷の子を意味するボアネルゲスと呼ばれていた。ヤコブは殉教し、ヨハネは長生きし真の愛の手紙と呼ばれる新約聖書ヨハネ福音書やヨハネの手紙を記した。ピリポはアンドレと親しく、思ったことを素直に語る人であった。バルトロマイはナタナエルと同一人物であると言われており、彼は物静かで黙想をよくする人であった。言い換えれば心がある人、霊的な人であったかもしれない。12弟子の中には行動を伴う人、静かな人いろいろな人がいた。イスカリオテのユダはイエス・キリストを裏切り自殺したが、このユダに限らず、イエス・キリストの弟子たちの中にはイエス・キリストを裏切った人たちは他にもいる。トマスはヨハネ20:25において「『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」と言っており、イエス・キリストを見ると、「私の主、私の神よ」と言った。それに対しイエス・キリストは「『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』(ヨハネ20:29)」と言われた。また、徴税人であったマタイは、ユダヤ人からその職業のゆえに嫌われていた。そして、熱心等と呼ばれたシモンは、ローマの支配に武力で抵抗しようとした政治的過激派であった。タダイはマタイ福音書にたった2度しか記述がない人物である。イスカリオテのユダが弟子となったことは失敗だったのであろうか。そうではない。それは12弟子すべてを選ばれたのはイエス・キリストであるからである。ヨハネ15:16でイエス・キリストが「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われている通りである。日本においてキリスト教はマイナーな宗教である。しかし歴史的には、キリスト教がマイナーである日本の国民をもイエス・キリストは救われたのである。そうとは言え、日本においてキリスト教人口はたった1%。そのような宗教には日本においては何もできることはないのであろうか。そうではない。何故なら、我々ではなく、イエス・キリストが我々を選ばれたからである。生きることと死ぬことは一つであり、亡くなった方々の生は終わったのではない。我々の内に、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの思いがあることを知るべきである。礼拝を捧げるということは自分の思いではなく、神様によって今選ばれてここにいる、それも自分一人でなく神様が我々を選ばれここに我々がいることを信じることである。我々が生きるとき、教会の外にいる町の人々のことをも思うべきである。町でお墓の前を通ることがあるが、私は「この町を守ってくれてありがとうございます」という思いを込めて祈る。牧師であるとかそうでないということは関係ない。他者がいるおかげで自分がいる、という感謝が大切なのである。

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