2019年9月29日(日) マルコによる福音書4:1-9 説教 黄昌性牧師
聖書本文
日本では種を蒔くとき一粒一粒を大事にする。パレスチナ地方では、農夫はまず畑一面に種を蒔きその後耕作に適している土地を鍬で耕し、土をかぶせる。耕作に適していない畑のあぜ道や雑草が生えている箇所などはそのままにしておく。それらの種は実を結ぶことはないが、農夫はそれはあまり気にせずに、畑一面に種を蒔くのである。ヨーロッパではイエス・キリストのたとえ話のとおり種蒔きが行われ作物が成長していく。小説「沈黙」の著者はキリシタン迫害時代、棄教した神父フェレイラを通して「日本は泥沼だ」と形容し、日本には福音は根付かないと語った。
マルコ4章13節 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
イエス・キリストが語られた「種を蒔く人のたとえ話(mashal)」を見ていきたいが、種が蒔かれてその種が成長するのを見守り、収穫に一喜一憂するのは、この当時の人々にとっては日常的なことであった。
種蒔きのたとえは、マルコによる福音書第4章1節から9節、マタイによる福音書第13章1節から8節、そしてルカによる福音書第8章4節から8節に書かれている。
今日の個所では、再び湖のほとりで群衆を相手にお語りになるイエス・キリストの教えが記されている。
おびただしい群衆に対して、舟の上から、湖畔にいる群衆に語り掛けるイエス・キリスト。ガリラヤ湖のほとりで群衆たちに教えを施される問いはすでに2章13節に出てきた。そして、おびただしい群衆がイエス・キリストのところに押し寄せてくるために、小舟に乗って群衆から少し離れて対応するのは3章の9節に既に出てきた。
「湖のほとりで」とあるが当然、ガリラヤ湖(ヨルダン渓谷の北端にある淡水湖)での出来事である。4章1節の聖句まで「ガリラヤ」Galilee(アフリカとアラビアのプレートの境界であるヨルダン大峡谷帯という谷の中にある。)が4回、「湖と海」が5回、「湖のほとり」が3回、書かれている。
種が落ちた場所として、道端、石地、茨の中、良い土地という四種類の土地が用いられているが、その四種類の土地は御言葉を聞いた人の心の状態であり、聞き方、姿勢を表しているといえよう。種を蒔く人がどのような土地にも種を蒔き、効率を重視することなく、失敗を恐れないでいる姿は、神が私たちに御言葉を語り続けてくださる姿と重なる。
種を蒔く人はどこに蒔くかはあまり気にせずに、むしろ最初から結果を予想しているかのように、いろんな場所に種を蒔いていく。
4節「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」道端、道路のほとりにの「ほとりに」は、「湖のほとりに」と言う時と同じである。蒔かれた種とは神の言葉または御国の言葉である。しかしながらこの言葉は、蒔かれたどの場所でも同じ結果をもたらすわけではない。その実りは、どの土地に落ちたかによって左右されるのである。その土地のひとつは「道端」の土地で、イエス・キリストの説明によれば、それは御言葉を聞いても「悟らない」人々のことである。「種を蒔く人」のたとえが意味するのは、悟ること、心の底から御言葉を受け入れることである。心が硬ければ、御言葉の種は道端に落ちたようになるであろう。「かたくなさ」と訳されたギリシャ語「porosis」という言葉は「無感覚、硬結」という意味である。これはマルコによる福音書3章5 節で、ファリサイ派の人々のかたくなな(ポロセイ)hardness心を表した言葉である。「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである」。神様の御言葉を聞いても、後から悪魔がそれを奪い去ってしまう、つまり御言葉がその人の心に根付かずに失われてしまうのである。
「人に踏みつけられ」という言葉からは、それが価値のないものとして無視される、ということも感じられる。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。(5、6節)」。「土が深くないので」、「根を持たないので」と、全く同じ表現である。「根」は、根の他に、根元から出る芽生え、ひこばえの意味を持つ。
ある土地では、種はすぐに芽を出すが、結局は枯れてしまう。それは石だらけの土地である。種が枯れてしまうのは、石があるために根が必要な水分を得られるほどの深さに到達しないからである。そのため、風が吹けばたちまちしおれてしまう。悪魔は神の「道」を曲げて「神の言葉を聞かせまいとして、人を信仰から遠ざける者」(使徒言行録13:7~10)なのである。つまり御言葉がその人の心に根付かずに失われてしまうのである。石の上には薄らと土があり水分もあるため、芽を出すこともある。しかし、良い地のように根をはることができないためしばらくすると枯れてしまう。御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないのでしばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。この場合は、御言葉を聞いてそれを喜んで受け入れ、信じる。しかし、石に邪魔されて根を深く張ることができない、いわゆる「根が浅い」のである。
「茨の中に蒔かれた種は、茨にふさがれて実を結びませんでした(7節)」。
カルポス。その実が結ばなかった、つまり信仰の結実が無かったのである。いばらの真ん中にも土はある。それで芽を出し、しばらくは成長する。ところが、周りにあるいばらも成長するためいばらに囲まれて、太陽の光があたらなくなり、風通しも悪くなり、ひょろひょろとしばらく成長するが、実を結ぶまでには至らない。ここでの問題は、御言葉とともに、「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」が心に入り込んでいることである。根が浅いというのではなくて、むしろ周囲の状況から来る妨げによって、せっかく芽が出ても実を結ぶに至らず枯れてしまうということである。信仰においてはその妨げの思い煩いは、悩みや苦しみや悲しみ、つまり不幸である。神様の御言葉の種が実を結んでいくための妨げになる、人間は不幸、苦しみの中でも、また幸福、喜びの中でも、信仰を失い、神様から離れていってしまうことが起ることが見つめられているのである。主イエスは御言葉の種を蒔き続けておられる。そして、その種は良い地に落ちて、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなるとの約束を与えてくださっておられる(8節)。
イエス・キリストは、このたとえを解説された(マタイ13:18-23)。「実を結ばない土地は、神の言葉を聞かない人の姿で、実を結ぶ土地は、神の言葉を聞き、それを心から受け入れる人の姿だ」という具合にである。
パウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリ1:18)と語った。十字架の言葉は、わたしたちをより分けていく不思議な力をもっている。信じない者は信じないが、信じる者には豊かなみのりをもたらすのである。
そのような習慣があるとしても、麦の種ならば多少無駄になってもそれほど気にしないで済むとしても、神の御言葉の種は一つも無駄にされてはならないと、わたしたちは考える。しかし、イエス・キリストは言われる。神の御言葉の種は、多くが無駄とも思えるように実りを付けずに終わるのだ。神の御言葉はこの地では、実に多くの敵や障害や抵抗に遭遇し、無関心や弱さやつまずきと出会うのだと。しかしそれでもなおも、イエス・キリストと共に御言葉の種を蒔く人は、失望せずに諦めずに、種を続けるために出かけていくのだと。これが、種を蒔く人のたとえの中心的なメッセージなのである。たとえ話の最後にイエス・キリストは、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。これは、「聞く耳を開いてよく聞きなさい」という意味に取ることもできるが、しかしそういうことは、たとえ話を語り始める前の3節における「よく聞きなさい」という言葉によって語られている。この9節はむしろ、「私のかけたこの謎を解く耳を持ちなさい」という意味であると考えてよいのではないであろうか。イエス・キリストはたとえ話によって、聞く者に、また私たちに、謎をかけ、それをよく考えさせようとしておられるのである。神が語りたいと願う場所に、種を届けることである。
神の言葉を私たちが真剣に聞くことから私たちの種蒔きは始まるのである。
1粒の種が、私たち自身のうちに実を結ぶならば、それは、100倍、60倍、30倍にもなる。 実は誰かを養うために存在する。そして、余った実は地に落ちて栄養となるのである。また、その実にある種が育ち、実を結ぶこともあろう。そうやって、神から受け取った種を私たちは、この世界に神と共に蒔くことが出来るのである。
イエス・キリストはこの種を蒔く人のたとえを語られた後、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。これは「聞きつづけなさい」ということである。イエス・キリストの言葉を聞くことの重要性が強調されているのである。そうするなら、必ず、イエス・キリストが言わんとするたとえの真意を悟ることができるようになるからである。イザヤ書6章9~10節「主は言われた。『行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなくその心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために』」。イザヤは預言者として神の言葉を語るように召されたが、イスラエルは見ても見えず、聞いても理解できない状態に放置されたのであった。
ルカによる福音書第8章15節 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」
前出の種類は、心がかたくなに固まっていて、御言葉を「悟る」ことも受け入れることもできない人たちである。対照的に、実を結ぶ種類の人たちは、立派な善い心で御言葉を聞き悟る。この実りのある種類に属する人たちは、他の実りのない三種類に欠けていたものを全て備えている。
「沈黙」のように、もし日本は泥沼なら、またもし石地や茨の生えた土地であるなら、そこで諦めるのではなく、その土地を改良する「福音の開拓者」とさせて頂く希望を語り継ぐことこそ、キリスト者に植えられる使命ではないだろうか。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」の「御言葉を聞いて受け入れる」ということは、聖書の御言葉を聞いて、イエス・キリストご自身を受け入れることであるとも言えるのである。イエス・キリストご自身を受け入れるというのは、イエス・キリストを信じて聖霊をいただくということである。
詩編126編5~6節に「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は束ねた穂を背負い喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」とあるが、
この慰めに満ちた答えは、祭司や預言者の思い付きのその場限りの慰めではない。また、安易な慰めを意味しているのでもない。
イエス・キリストは、ヨハネ12:24~25において、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われる。この詩編のこれらの言葉も、主イエスのこの言葉と根底において同じ理解が存在する。その時代の苦難に、光を与え、最終的に闇から光へと導くのは、神の奇しき生命力への信仰だけである。確かに御言葉は、至る所で増えてゆき、それが正しい仕方で受け入れられる所では、とどまることはない。しかし必ずしも、どこでも、同じような爆発的な力で、人々を捕えるわけではないのである。 御言葉が、ある者の中につくった信仰によって、他の者の中に信仰が起こされる。ある人の中に植えつけられた愛によって、他の人の中に愛が目覚めさせられる。 しかし、その働きの範囲は、イエス・キリストの言葉を持ち、守る人々の中でも、いろいろ段階があるということである。 ちょうど一粒の種が、ある場合には30倍、ほかの場合は60倍また100倍と、種の中にまた種粒を生んでいくようなものである。
このようにイエス・キリストは、弟子たちの中に、彼の働きが無駄に終わらないように、また弟子の業も無駄にならないという、喜びに満ちた確信を呼び起こしたのである。野菜や作物を育てて、実を結ばせるためには何が必要であろうか。まず、畑を耕すことである。また適度な養分、水分が必要である。しかし、それだけでは十分ではない。豊かな実を実らせるためには、良い状態を保つ必要があるのである。雑草をひいたり、虫を取り除いたり、日当たりや水にも気を使う必要がある。これと同じように私たちの心の状態を良い状態に保つためには手入れが必要である。つまり、日々の祈りが必要なのである。