日本基督教団 南町田教会

説教集

主日礼拝説教 2019年8月4日 マルコによる福音書2:13-17 黄昌性牧師

聖書本文

聖書は物語であり歴史である。聖書には事実が書かれている。神はいるのであろうか、という問いに、私は神はいる、と答える。単純にイエス・キリストを信じているからである。どのようにであるかというと、例えるなら、空気が空中にあることを信じるように、である。空気は目に見えないが確実に私たちを取り囲んでいる。そのように神はいるのである。私は幼少期からサッカー、テコンドー、ボクシングなどのスポーツをしてきたが、どのスポーツにおいても正しいフォームを最初に学んだ。正しいフォームを覚えなければいくら練習しても自己流となり、決して上達しないのである。礼拝にも正しいフォームがある。単なる規則ではなく、神様に近づく正しい心身の姿勢を覚えなくてはならない。目に見えなくても神様はおられるのである。その神様に正しいフォームをもって礼拝を捧げるときに大いなる喜びがある。私たちの教会が創立した高齢者福祉施設のみぎわホームでは、毎朝礼拝が捧げられている。礼拝に出席する方々は、自分で自分の身の回りのことをすることができない要介護4~5の方たちであり、またノンクリスチャンの方が多いのであるが、皆さん目を輝かせて讃美歌を歌い、祈りに合わせて「アーメン」と唱えるのである。信仰者にもそうでない方にも、目には見えない神様が、高齢者の方々を喜びに満ちさせ、目に見える形で平和が注がれていることが示される場である。正しい礼拝の姿勢の一つであろう。イスラエルは当時ローマ帝国の支配下にあったので、イエス・キリストはローマ帝国のもとに生まれたと解釈できる。マルコ214でイエス・キリストの弟子となったレビをはじめとする徴税人は、ローマ帝国に雇われ、税の取り立てをしていたため、ユダヤ人からは罪人とされていた。17節「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」。レビはユダヤ人から裏切り者、罪人といわれていた。ローマの人ではないのにもかかわらず、ローマのために働いていたからである。13節においてイエス・キリストは湖のほとりに出て行くと群衆が集まってきた。それで、そこでもイエス・キリストの権威ある教えが語られた。イエス・キリストとレビは何を機会に出会ったのであろうか。それは、「場所」がもたらした恵みによってである。キリストとの出会い、それがレビの人生を変える転機となった。私たちにおいて、礼拝がレビでいうところの収税所のように、人生が変わるチャンスの場であるかもしれない。また世界の平和のために祈る好機でもあろう。14節でイエス・キリストは、収税所に座っているレビを見かけたとあるが、この時に用いられている「見かける」とはギリシャ語でエイドン(=He saw)である。ここでイエス・キリストはレビのむなしさ、満たされない深い渇きをご覧になった。レビの内にある孤独、空虚を見られたのである。レビが徴税人であるということは、彼がアラム語、ギリシャ語、ヘブライ語ができる人であったことを示している。また、レビという名がもし旧約の時代のレビ族と同じ意味を持つのであれば、彼は祭司の血筋の人物であり、律法に深い知識を持っていたと考えられる。そうであれば、モーセ五書を信じ、異教の神を決して信じる立場の人ではなかった。そのレビが「立ち上がって(アラスクス)イエスに従った(14)」のである。文字化されていない言葉を私たちはこの個所から捉えなくてはならない。なぜレビは立ち上がったのであろうか。そしてイエス・キリストはどのような形でレビに近づかれたのであろうか。礼拝は例えて言うならアートである。礼拝の中に言葉ではなく音楽や美術の内にある神様の威光を感じるのである。「私に従いなさい」といわれたイエス・キリストの言葉の前後に真実を見出したいのである。マタイ9913、ルカ52732にも、この、徴税人であったがイエスの弟子となったレビについての記事が残されている(マタイとレビは同一人物として捉えることができよう)。レビとはどのような人物であったのであろうか。マルコ2:15に列記されている通り、徴税人と罪人は同格であった。この「罪人」にあたるギリシャ語は、「誤り」、「問題」、「宗教的に罪を犯す(倫理的罪ではない)」ことを表す語と同じ語である。そのため徴税人であったレビは人々から見捨てられ、ユダヤ人としてのアイデンティティは薄れ、彼の本質は渇ききっていた。そのような中でイエス・キリストに出会い、レビは「この方が救い主だ」と信じイエスに従い、のちに弟子となるのである。正しい人とはどのような人であろうか。イエス・キリストは罪人を招くためにこの世に来られた。罪とは弱さである。人の心の外に立っているキリストに私たちは出会っているだろうか。キリストと出会うためには心の扉を開かなくてはならない。レビは収税所の門の前でイエス・キリストが来られるのを待っていたのであろう。そのレビにイエス・キリストは「私についてきなさい」といわれた。ある場所、ある時間においてイエス・キリストに出会い、従えば救われるという信仰をレビの姿から見出せる。しかし順調に物語は展開しないのである。他の徴税人や友人、律法学者やファリサイ派の人々が周囲にいて、イエス・キリストに心を開いたレビの救いの物語を邪魔しようとするのである。ユダヤ教の律法において、徴税人と食事をすることは許されていなかった。それで16節において「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」のである。現代において、ヨーロッパのある地方のレストランに行くと、西洋人と東洋人の食べる席を区別しているところがある。未だ聖書的になっていない現状を見るのであり、イエス・キリストの教えに反している世界である。レビは他の徴税人もイエス・キリストと出会うことができるよう、あえてイエス・キリストと自分の一対一ではなく、宴会の形で食事をした。徴税人は疎まれる存在でありながら、深く物事を考える力があったのである。イエス・キリストの彼らに向けられた御言葉は何を示しているのであろうか。それは神の愛は人の愛である、ということである。人の愛とは「イエス・キリストに従いなさい」と導くことである。礼拝における正しいフォームとは、空間に奏でられる音楽と祈りが和音となって、美しさの中に神様の臨在を神様の知恵の言葉の内に感じることである。つまり、礼拝において現れるすべての事物を通して、イエス・キリストと出会うことである。それがなければ御言葉を悟ることはできない。聖書を理解し、キリストに真に祈るためには、自ら御言葉を読まなければならない。マルコ2:17の「医者」とは神様のことで、神様のみが人を癒すことができる方であることを示し、「丈夫な人」とは正しい人、律法を守る人のことである。御言葉を行わない人は神に従わない人であり、律法を「ただ知っている」人である。人の力ではなく神の御力によって、自分が罪人であることを告白することができるように求める必要がある。人には不可能なことであっても、二人三人が共に礼拝し祈るときに、神様の御力が働いてくださるのである。罪人が嫌われるのは、イエス・キリストが伴っていないからである。私たちは私たちの真ん中にイエス・キリストがおられることを願い、かつ「我々を憐れんでください」と乞い求めるべきである。丈夫な人に医者はいらないと記されているが、実際、丈夫な人はいないのである。私たち人間は罪人であり、病人であることを素直に認めるときに扉が開かれる。病には絶望や弱さという問題が伴っている。年を取り、かつ病になると、皆、希望を失い弱くなるものである。私たちもそのような年齢に至らなければわからないこともあろう。しかし、その時になっても私たちは弱さを乗り越えることができる。なぜなら、イエス・キリストの愛と与えられた信仰があるからである。絶望ではなく、希望を持つことができるのである。徴税人であったレビは病んでいたが、しかし、救いを待ち望んでいた。現代を生きる私たちは、福音書の出来事を昔の教えで終わらせるのではなく、実際に起こった歴史としてリアルにとらえるべきである。病が癒され、そして、悲しんでいる人が希望に満ちるようになったのはイエス・キリストが彼らに言葉をかけられたからであったこと。「あなたの信仰があなたを救った」という御言葉、これがKey Wordとなって彼らを救われたのである。イエス・キリストに心を向けて、「十字架の祈り、喜び、感謝、賛美を私に与えてください」、と祈るときに、イエス・キリストが応答してくださる。徴税人であったレビが、渇きの内にそれでも希望を捨てず救いを待ち望んだ時に、イエス・キリストがご自身に従うように言葉をかけてくださったように、イエス・キリストは私たちが求め待ち望むときに「私についてきなさい」と声をかけてくださるのである。

主日礼拝説教 2019年7月28日 マルコ福音書2:1-12 黄昌性牧師

聖書本文

聖書の世界は神への礼拝そのものである。人の子であるイエス・キリストをマルコ福音書は、救い主キリストの特性を強調して、神の子であり人の子であるイエス・キリストとして記録している。イエス様は「人であるのにこれができる」、「人であるのにあれをする」とイエスス・キリストを判断する律法学者とキリストにおける物語の展開を見ることができる。マルコ福音書を読み進める中で見ることのできる人の子イエス・キリストの姿の一部は次のとおりである。1:21カファルナウムに入られるイエス様、そこで汚れた霊に取りつかれた男を癒し、29節において死の病に伏していたシモンの姑をシモンの家で癒すことが描かれている。その後にガリラヤの会堂におられたとき、らい病を患っている病人を癒された(「御心ならば私を清くすることがおできになります(40)」)。そして2:112においてイエス様は中風の患者を癒された。病と罪には関係があることが多く、キリストがこの地上に現れたのは我々の罪ゆえであった。人間は得てして自分で聖書の言葉を解釈してしまう。らい病という病名を、その症状が変わらないのにも関わらず、和訳が3つある。「らい病」、「重い皮膚病」そして「律法の規定の中にある病(最近出版された聖書の訳)」である。木を見ず森を見る、という言葉があるが、人は木である自分ばかりを見る。人は生まれながらに罪人だからである。その罪人のためにイエス・キリストがあらわれてくださり救いの御手を差し伸べてくださるのであるから我々は森を見、全体を知るべきなのである。汚れた霊に取りつかれた男の癒し→シモンの姑の病の癒し→らい病の癒し→中風(全身麻痺)の人の癒しという一連の出来事を文化に沿って一つ一つ解釈する。いずれにしても病の内にある人々に必要なのは迅速な癒しである。今朝の中風の患者を床に寝かせて連れてきた男性4人は、イエス・キリストがいる家にあまりにも人が大勢いて中風患者をイエス・キリストのもとに連れていくことができないため、非常識な方法をもって何とかしてイエス・キリストに近づこうと考えた。この出来事については、マタイ92-8およびルカ517-26にも同様の記録がある。マルコ2:1「数日後」、イエス様はカファルナウムからガリラヤへ行かれた。イエス様はガリラヤで、神の国の福音、御言葉を伝えておられたのである(マルコ1:14-15)。神の国が近づいた、悔い改めよ。と語っておられたのである。その後カファルナウムに行きある人の家に入ると、イエス様のはなされる神の国の話を聞きに大勢の人がその家に押し掛けてきた。そこへ中風の人を床に寝かせて4人の男がイエス様のもとに来た。男たちは「イエスのおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした(4)」のである。彼らは、イエス様の言葉を聞くため、また癒していただくためにはそのようにしなくてはならなかったのである。中風の人を連れてきた男の人達は中風で苦しんでいる人を助けたい一心であり、彼らのこの一連の行いのベースとなる規則は「イエス様のところに行く」ということであった。人の家の屋根をはがして穴をあけ、人を床に寝かせたまま穴から釣り下ろす、などという行動はとんでもないことである。しかし、神様からご覧になる「人の罪」の方がどれだけとんでもないものであろうか。4人の男たちは、イエス・キリストが語られた旧約聖書コヘレトの言葉412「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」から知恵を受け、病に苦しむ友人を見たのである。イエス・キリストによる業は、マルコ福音書1:16でペトロたちに声をかけ「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう(17)」と言われた出来事から、汚れた霊に取りつかれた男を癒され(25節)、シモンの姑の病を癒し(31節)、そしてらい病の人を癒され(41)、今中風の人が癒された出来事まで、共通点をもってつながっている。それは「信仰」と「服従」である。彼らはイエス・キリストを信頼し、従ったのである。「対象の継続性」というものがある。まずぬいぐるみをみせ、そのぬいぐるみを箱の中に入れて隠す。それを見る側はぬいぐるみが実際に目に見えなくても箱の中に「ある」と認識することを対象の継続性という。中風の友を連れてきた4人の男たちは、イエス様を実際に見なくても「イエス・キリストの癒し」を見ていた。目の前の障害の有無にかかわらず、「箱の中に隠されているキリストの癒し」を彼らは見ていたのである。それゆえ、イエス様は彼らの屋根をはがすという行いを信仰と言われたのである。イエス・キリストの道に入るには導き出される(Exodus)必要がある。神と聖霊を見出し、目の前の問題にとらわれる自分、我々で言えば、同じく礼拝の場に他の人がいるという、目に見えるいわば障壁にとらわれている自分を知ることである。4人の男の人たちはともに祈り、賛美し、イエス・キリストの癒しを必要とする友をキリストの前に連れていくためにともに屋根をはがして友をつり下ろした。発想の転換、逆転の発想と言えよう。一般の世界と礼拝の世界は同様ではない。それはなぜであろうか。それは、礼拝にはキリスト、聖霊が伴われるからである。イエス・キリストに委ねていたため男たちは屋根をはがし中風の友の床をつり下ろした。救いの恵みを得るには救いの道に入ることである。「子よ、あなたの罪は赦される」(5)という、病に苦しむ人へのイエス・キリストの言葉の意味を律法学者は理解できなかった。また、イエス・キリストが人の罪を赦すことを理解せず、神を冒涜していると言ったのである。病と罪とは往々にして相互関係があると言える。罪の結果ではない病もあろう。しかし、病にあるとき罪にまみれていると言えるのである。イエス・キリストが罪を赦し、病を癒される神であることを理解しなくてはならない。マタイ95『あなたの罪は赦される』とあるが、すでにあなたの罪が赦されている=Forgiven、救われている、とイエス様は罪との関連性を示唆しつつ病の癒しを宣言されている。ここに救いの順序を我々は見る。エフェソ28「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 」恵みが先行しているのである。ペトロがイエス様を「あなたは神の子です」と告白したように、イエス・キリストの恵みに対する信仰の告白を絶えずすることである。4人の男たちは中風の人をイエス様のところに連れてきた。このことこそ、信仰の告白である。イエス・キリストは人であったのに、どうやって人が人の罪を赦すことができるのかという疑問があるかもしれない。イエス・キリストは神の子である。神の子として神によって与えられた罪を赦す権威をもって人の罪を赦されるのである。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。(マルコ210)」これはまさに神様の奥義である。我々はその神様をそのまま信じ受け入れればよいのである。「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。(12)」箱の中に入っている物体は目には見えない。しかし、その物体は確かに箱の中に入っているのである。プラトンは言った。洞窟の中にいる人が洞窟の中に差し込んだ一筋の光を真の光であると認識するが、その光は洞窟の外にいる他の人が見れば真の光ではない。洞窟の外に出て真の光を見るべきである、と。事物は正しく捉えなくてはならない。イエス・キリストと共にいるならば罪の問題は解決する。これは奇跡であろうか。否、奇跡ではなくイエス・キリストにおける真実である。イエス・キリストが自ら十字架の死をもって我々の罪を赦してくださったである。病の癒しと罪の赦しにはキリストの救いが伴っており、我々はその事実にただ信頼すべきなのである。人の罪を赦す権威を持つイエス・キリストを霊と真理をもって礼拝する一週間でありたい。

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